ゆっくりした学び合いで本当の力を付ける [みどり日記]
我が家の西側は、有明海からの激しい海風に晒されるが、夕べからの嵐は今年一年を象徴しているようだった。
特に、子どもたちを取り巻く悲惨な実態。各地の教育委員会からのデータによる文科省の統計ではゼロとなっている“いじめ”による児童・生徒の自殺が、実際は、かなり多く起こっていることがわかった。もちろん、いじめだけが原因でないケースもあるだろうが、過去を検証するならば、表に出ているのは氷山の一角だろう。日本は国連から、子どもを競争へと駆り立てる現実を、子どもの権利条約に抵触すると指摘され、改善するように勧告を受けている。ところが、日本は勧告を真摯に受けてとめて来なかった。そのツケは大きい。
なぜ、子どもたちは、それぞれの持つ育った環境や備わった感性の違いを、多様性として認めず、排除や攻撃へと駆り立てられてきたのだろうか。私が子どもの頃からそれは始まっていた。しかし、まだ勉強ができるだけで評価されない、違いを“許容”する余裕が学校にはあったと思う。しかし、今は違う。“学ぶ”ということが本質的に、変質されられてきたのではないか。
本来、クラスメートとの学び合いは、それぞれの感性がいい意味でぶつかり合い、発見を喜び合うことであるはずだ。たとえば、公式を覚えるのではなく、公式を見つけだすための試行錯誤。そこでは、ゆっくりだけれど、将来、折々壁にぶつかった時に、それを乗り越えるための“力”が身に付く。他人との関わりや社会で生き抜くための応用力だ。ところが、受験テクニックを追求する社会では、公式に当てはまらないと対応できない人間を産み出す。他者を蹴落とす術は備わっても、他者との関わりは排除される。フィンランドを始め北欧諸国は、そのことに早く気づき、実践してきた。その結果が、“学力世界一フィンランド”として実証されている。
“いじめ”は、どこの社会にも起きている。日本ばかりの話ではない。しかし、今の日本の教育の在り方は、子どもの”格差社会”そのもので、弱者切り捨てだ。切り捨てられた者が、更に弱い人へと暴力を向ける。あるいは、他者の痛みを知らない強者が、陰湿ないじめに走る。これは、世界の中でも類を見ない異様な子どもの世界ではないか。
「他者とのコミニュケーションが持てず、孤立している。学力も本物のではない」こんな子どもたちの状況が、教育基本法を改正して是正されるはずがない。まったく筋違いだ。モラルや道徳を言うならば、関心が自分だけにしか向かない子どもたちを、これ以上、不毛な受験戦争に駆り立てるのではなく、少人数学級を更に進め、応用力を育てるための本物の基礎・基本をゆっくり身につけさせるための“共に学び合う環境”の充実にこそ、徹底して予算を付けることだ。
しかし、自民党も民主党の一部も、国民の心に介入し、コントロールしやすい国民を養成するための教育基本法改正には強い関心を示しながらも、そのことがわかっていない。2007年度の政府予算を見ても、相変わらず格差社会を下支えする教育予算だ。そのうち、世界の中で、“あんな国にはなりたくないね”という声が聞こえてこないかと心配な年末だ。