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2007年10月29日

女性議員で勉強会

やっと秋らしさを感じるようになったかと思えば、今週はもう11月。日中はまだ半袖が活躍するのだから、今年は本当におかしい気候だ。全面的な衣替えは来週でいいかもしれない。

4月の改選で、熊本県議会の女性議員は3人となった。船田公子県議(自民党・天草市)と浦田祐三子県議(自民党・玉名市)、そして私(民主県民クラブ・熊本市)だ。議員の仕事に男性も女性もないが、やはり社会のどの分野にも女性も男性もいることが望ましいわけで、その点、熊本県議会もわずかではあるが、男女共存へと進みつつある。

さて会派が違う私たちだが、できる限り連携できないかと思っていた。そんな中、まずは一度食事でもということになり、先月実現した。二人ともとても楽しい方たちで、おいしいイタリアンとおいしいお酒に会話も弾んだ。その時、一緒に勉強会をしようということになった。まずは3人が共に関心を持っている“子ども”や“女性”についての現状を知ろうということで、先週の月曜日に長嶺の県福祉総合相談所を訪ねた。

当日は、所長以下、児童相談所、女性相談センターの担当職員の皆さんに説明を受け、それから質疑。私自身は何度も訪れているが、説明を受ける度に、年々状況が深刻化しているのがわかり、勉強になる。12月県議会では、浦田県議と私は一般質問が控えているので、質問のヒントも1,2得た。

児童相談所には、一時保護所も併設されている。つまり、児童虐待の被害を受けている子どもや諸々の親の養育力の問題で保護されている子どもなどが、平均2週間暮らしている。一般にはこのエリアには人は入れないが、児童福祉を含め議員として論議する立場の私たちは、保護されている子どもと施設の情況についても視察した。

2才くらいから中学生までの子ども20人が暮らしている。安堵している子どももいれば、何故ここにいるのかわからないという子どもまで、様々だろう。すぐに親元に戻せるケースはあまりないだろうから、期間はまちまちだろうが多くは養護施設等で暮らすことになる。小さい子どもは、人恋しいのか私たちに寄ってくる。浦田県議、船田県議とともに、しばし子どもたちのおもちゃの相手をしたり、車いすの膝の上に乗せたりして“交流”した。

子どもたちは、彼ら自身には何の責任のない事情の中で保護される情況になった。非行による一時保護も、結局は周りの大人の子どもとの関わり方の問題だと言っていい。彼らを見つめながら、「今後が心配ですね・・・」とつぶやき合った。私たち議員としては、子どもたちに今後どんな情況が待ち受けていても、子どもたちがみんな幸せになれるよう、政治に何ができるか考え続け、行動しなければならない。

それにしても、いつもは男性ばかりの中での視察や勉強会だったが、女性だけ3人でというのもなかなかいい。“議員風吹かせて”という雰囲気は微塵もない。発言が生活者感覚で、肩肘がはっていない。今後の折々の選挙では、なかなか一緒にというわけにもいかないだろうし、テーマによっては対局に位置することもあるだろうが、そうでないテーマについては、今後もお二方と一緒に学んでいけたらと思う。

2007年10月28日

乳ガン早期発見のための検診を

ここ数年マスコミを通じて、乳ガン早期発見啓発キャンペーンが繰り広げられている。特に、今年はピンクリボンがやけに気になって、危険ゾーン年齢の自分自身への警告と感じていた。3年ほど前、人間ドックで触診は受けたことがあったが、専門医の診断ではなかったので、やはりこの際しっかり検診を受けておくことにした。

日本人女性の乳ガン罹患率は「20人に1人」と言われている。特に40代から50代にかけてはピークを迎える。これは人ごとではない。そして、私はいわゆるハイリスク組だ。出産経験無し、ストレスのややある仕事、40代後半、過去の不妊治療(1年間ほど)によるホルモンバランスの低下の可能性などがその要素だ。考えれば考えるほど、気が滅入ってきていたが、小さなガンであれば生存率は90%以上であり、もしそれを見過ごし続ければ、リンパから他の臓器へと転移し、取り返しがつかないことになるらしいので、覚悟を決めるしかなかった。

そこで検査をするなら、マンモグラフィーまでと思い、どこがいいか思案していたところ、熊本市帯山の「みわクリニック」を知人に紹介され、先週受診した。日赤で経験を重ねた女性の乳腺専門医の秋月美和ドクター他、スタッフは全員女性で、とても丁寧かつ心配りが行き届いた診療だった。特にマモグラフィーは、乳房を片方ずつサンドイッチし“のしイカ”のようにして撮影するという少しの間痛みを伴う撮影だ。これを失神するほどの痛みと形容する人もいるようだが、それは全く大袈裟な気がする。ほんの数十秒なので、あっという間に終わる。

マモグラフィーだけではこれまた見過ごすガンもあるらしく、超音波エコーでも検査した。この二つを見て総合的に判断するのがよいとのことだ。美和先生の説明や対応は、とても丁寧かつ真摯で受診者に安心を与えてくれる。結果が芳しくなくても、あの対応なら前向きに治療を受ける気にしてもらえるだろう。私の結果だが、幸いなことに今のところ乳ガンではなかった。しかし毎月誕生日とかに決めて、自己触診することと、年に一回はマモグラフィーとエコーで検査を続けるようアドバイスされた。年齢を重ねる毎に、いつガンが発生するかわからないのだそうだ。

さて、敢えて今回私の検査経験をこのブログに書いてみた。乳ガンは女性特有でありやっかいな病気だが、早期発見ならほぼ完治が可能な病気でもある。働き盛り、子育て中の女性を襲う忌まわしい病でもある。だからこそ、女性の皆さん、少し勇気は要るが、是非検診を受けていただきたい。また、男性の皆さんも、お連れ合い、パートナーなどに検査を受けることを勧めていただき、早期発見で深刻な事態を防ぎたいものだ。

2007年10月27日

祖母の最期が近づく

随分間が空いたブログで、チョンマル・チュソンハムニダ(大変失礼いたしました)。

ここのところ、いよいよ死期が近い祖母(意識ははっきり)への対応、11月いっぱい老人保健施設に入所している母へのケア(心のサポート、洗濯物の運搬)など、私事で動き回ることが多い。母については、12月からの我が家での同居再開に向けて、歩行練習に取組んでおり、とりあえず元気で心配はない。

心が痛むのは祖母だ。頭がしっかりしていて、特に病いがあるわけでもないが、着実に体のすみずみが急速に衰えている。訪ねていくと「もうきつか。みんなに迷惑をかけている。先生に、静かに死ねる薬を出してもらって」と気弱なことを言う。そんなことは出来る訳はないし、「きついんだね。でもみんながついてるよ。大丈夫だよ」と返すしかない。

入院は絶対にいやだという本人の意思を尊重し、手を尽くしておばたちは在宅でケアしている。ホームヘルプや訪問看護、訪問診療などもフルに入れて、それこそ皆さん“チーム”で祖母の最期に対応してくださっている。私も祖母を見舞い、感覚が鈍麻になってむくみのある祖母の冷たい手や足をさすりながら、固くなった舌を動かし一生懸命話そうとする祖母の言葉を、時間をかけて聞き取り、どうにかコミュニケーションをとっている。

祖母は、40年以上前に父を亡くして母が私たちを連れて実家に戻った時以来、日中仕事で家にいない母親の代わりになって、私たちを育ててくれた。口うるさい祖母とはぶつかることもあったが、私たちの世話を怠ることはなく、責任感の強い人だった。時々思い出す祖母の作る茶碗蒸しやうどんや干しタケノコの煮物、その他たくさんの味は、私の舌に刻まれている。手をさすりながら「これまで本当にありがとうね」とつぶやいた。

人は自分が最期をどのように迎えるか、事前に知ることはできない。事故や身体の異変による突然死などでの急逝もあれば、病で苦しむ最期もあるかもしれない。家族や友だちに見守られて静かに最期を迎えることができれば一番だろう。しかし祖母は、自分が長く生きて“迷惑をかけている”という意識があるだけに、辛いだろうと思う。決して、彼女の最期にかかわっている人たちには、迷惑をかけられているという思いはない。100才まで生を全うしてきた人への畏敬の念が、祖母の最期に向けた皆の思いだ。今日も「大丈夫だよ」と祖母に語りかけに行こうと思う。

2007年10月17日

くだらなくない”百済”を訪問?!

韓国忠清南道の扶余市での百済文化祭に参加して、15日に帰国した。といっても、わずか1時間ちょっとのフライトで、韓国は東京よりはるかに近い。時差もなく、何度行っても外国のような気がしない。9月に訪れた時は雨続きで寒いほどだったが、今回は晴天だったこともあり、日本の例年の10月と大差なくとても過ごし易く、韓国の秋を体感できた。

しかし、仁川空港から大田市まで車で移動は大変だ。約3時間も車に揺られた。ソウルから大田市までならKTX(新幹線)で40分ほどなのだが、位置関係から車での移動が最短ということらしい。車依存の国だから高速はどんな地方でも四車線で整備されているし、そのうち一車線は6名以上が乗車している車両(バスやワゴン車)専用だから、渋滞でもスイスイと進む。6名未満の車で走行すると、しっかり写真を撮られ、後で違反請求がやってくるそうだ。

それにしても、今回は交通事故(追突など)を4カ所ほど見たし、車線変更の乱暴さは日本以上のものがあり、車依存を少しでも解消していかなければ、韓国、特にソウルは限界だと感じだ。日本のような車庫証明はあって無きが如しのようだ。とにかく車が多すぎる。ただ、ノンステップバスは、ソウルに行くたびに増えていると実感する。

さて、百済文化祭だが、これまでは百済の都であった「扶余」と「公州」で交互に開かれていた。偶数年の10月に扶余市で、奇数年の10月に公州市でというふうに。今年は、公州・扶余の共同開催(10月11日から15日まで)になり、忠清南道あげて、力を入れている。熊本県は、友好関係のある忠清南道の文化祭であり、県内には百済の影響を受けた鞠智城址もあるため、百済文化祭に契機に更に友好を深めている。

韓国では最近時代劇ブームのようで、若者も年配者もよく見るらしい。その中でも、「朱蒙(チュモン)」や「薯童謡(ソドンヨ)」という時代劇では百済が舞台となっている。いつか時間を見つけて見てみたいと思う。それにしても、百済が高句麗によって滅ぼされた後、多くの百済人が日本にもやってきて、様々な文化を日本に根付かせていたことはなんとなく知っていたが、その名残が日本の各地に残っているそうだ。前述の鞠智城もそうだが、関西や各地には“百済”という名称が地名になっているところもあるそうだ。

ちなみに、つまらないもののことを「くだらない」というが、これはよいものが百済のもので、「百済でない=つまらないもの」となったそうだ。また、空腹のことを「おなかがペコペコ」というが、このペコは、韓国語の「ペゴパ=お腹が空いた」から来ているようだ。なるほど!!海を隔てていても、地名や言葉などに表されているように、文化や人の交流は地続きと言って過言ではない。ますます親しみを感じる国だ。

熊本県議会には、日韓議員連盟があり、私も今春からメンバーとなった。今春までの議連の会長は、引退された某ベテラン議員だったが、彼は訪問団長としての挨拶において、持論の朝鮮・韓国蔑視の内容を披瀝してきたため、物議を醸すどころか、韓国側に不快感を与えてきたようだ。多少ニュアンスを押さえたとしても、通訳者の皆さんのご苦労は想像以上のものだったことだろう。しかし、今回、前川收県議が会長を引き継がれ、ようやくまともな挨拶をする会長の登場となった。

3日間の訪問は無事終了した。本当の日韓友好議員になるためにも、次の訪問の機会には少しは韓国語で会話が出来るようになっていたいという思いを新たにしながら、帰途についた。

2007年10月12日

韓国百済文化祭へ

明日から2泊3日で、韓国を訪問する。熊本県が友好関係を結んでいる忠清南道で百済文化祭があり、経済関係者の皆さんを始めとする一行に県議会からも参加する。民主県民クラブからは私が順番ということで回ってきた。

9月のDPI世界会議を始め、今年は韓国づいているようだ。ソウルとは違った地方都市の様子をまた報告したい。そこで今回はノートPCを持参しないので、このブログはまた帰国する15日から再開ということにしたい。尚、持参する携帯電話は国際電話にしているので受けられるはずだ。

2007年10月11日

フィンランドの教育に真摯に学ぼう

月曜日の大雨は、まるで初夏の集中豪雨のような容赦ない激しさだった。夕方約束があって外出したが、車から出て到着するまでにずぶ濡れに。10月の“スコール”はますます日本の亜熱帯化を感じさせる。今週も30℃近くが続いている。紅葉は師走になるかもしれないとも聞く。クリスマスのポインセチアの赤と紅葉が競い合うなんて、ちょっと頂けない。

3連休の6日は“勉強の日”となった。人権問題の活動家であり、エッセイストの辛淑玉さんの気合いの入ったお話を聞いた。いつもながら、天皇制や日本の外交政策から、ジェンダー問題まで、思うところを堂々と本音で語られる。辛さんは在日韓国人として、修羅場を超えて生きてきた中で、日本にも韓国にも“媚びることなく”アイデンティティーを確立してきた。私にとって今回で3回目となった彼女の講演。辛さんには強靱な精神力に支えられたやさしさをいつも感じる。とても私より1才年下とは思えない尊敬すべき女性だ。

またその夜には、“学力世界一、フィンランドの教育の謎”と題した都留文化大学の佐藤隆先生のお話を聞いた。フィンランドを始め北欧諸国の子どもたちの学力は、世界のトップを占めていることは、PISA学力ランクにより明らかになった。そのため、日本などからも背広姿の男性(教育行政関係者?)を中心とした視察が相次いでいるという。そもそも、このPISAは、単に点数を高くとるドリル式の学習の結果、高い評価を受けるというものではない。問題の分析、判断、解決など様々な力が試され、その結果“生きる力”を基本とした学力が判断されるというものだ。

では、トップのフィンランドではどのような教育が展開されているのだろうか。佐藤先生は、フィンランドでは、ドリルのような反復的ではなく、子どもが想像力は創造性を養えるような“もの語りを基本とした学習(narrative learning)”が進められているとおっしゃる。算数でも理科でも社会でも国語でも、もの語りを展開する中で学んでいけるような指導がなされるそうだ。実際見てみなければわからないが、子どもたちは積極的に発言し、他の子の発言にもしっかり耳を傾け影響されながら、更に自分の考えを確立していく。そのプロセスが、ゆっくりではあっても真の学力アップに通じているということらしい。ちなみに、子どもたちから大人まで、本をよく読むフィンランド国民の図書貸し出し数も世界一だそうだ。

フィンランドでは、小テストや学期のテストなどで、他者との優劣や序列を明らかにする日本のやり方は見られない。子ども自身が、少し前の自分と今の自分を比較して、進捗を確認することはあっても、相対的評価は子ども一人ひとりの学力向上に何の意味もないとしている。つまり、日本でいう“落ちこぼれ”は作らないやり方だ。友だち同士が教え合ったり、助け合ったりすることも含めた地道な教育が、子どもたちの学力全体の底上げをし、結果として世界一となっている。

夏休みや冬休みには、先生たちも有給でお休みだ。今の日本のように学校に出てくることを強要されない。その間、先生たち自身の指導力アップのための自己研修、教材研究などに自由に使えるそうだ。もちろん心身のパワーを充電する期間でもあり、長期の旅行も、その中で教育に活かせるヒントも得られるという点で大きな意味を持つ。だから先生への道は難関であり、尊敬されている職業だそうだ。今の日本と比べると、少し“難関”の意味が違うようだ。日本のように、財政面を理由に正規教員の採用を控え、臨時採用という不安定な雇用で賄っていては良い教育は出来ない。

そのフィンランドは、日本の旧教育基本法に学び、教育を展開してきたそうだ。それなのに、日本とフィンランドのこの違いは何だろう。子どもを中心に置いた教育を忠実に実践してきたフィンランドと、市場原理や復古主義からの教育への要求に翻弄されてきた日本の教育。おまけに、必要もない教育基本法の改正すらやってしまっている。ここら辺で、「詰め込まない、競争しない。ゆとりと遊び、学び合う教育で学力世界一」のフィンランドを始めとした北欧諸国の教育に真摯に学び、子どもが伸び伸びと真の力をつけていける教育に向けて、今の日本の教育の方向性を見直すべき時期に来ていることは間違いないようだ。

2007年10月04日

子どもたちから学び続けたい

10月2日からスタートした熊本学園大学・部落解放研究会共催の「水俣学」連続講座の第一回講義で、私が尊敬してやまない原田正純先生のお話を久しぶりに聞かせていただいた。先生はここ1、2年体調を崩されていて、今回は久しぶりの講義だとおっしゃっていた。熊本大学医学部の一学生だった原田さんが、水俣病公式発見前後に水俣の地で何を見、何を感じ、どう行動してきたかを、切々と気負うことなくお話しになった。

先生の話を聞きながらいつも、「この人の偉大さはどこからくるのだろう」と思っていた。今回あらためて、正直さ、予断なく物事・人に接する素直さ、決して自分を大きく見せようとしない根っからの謙虚さ、ウイットに富んだキャラクターなどが相俟って、原田正純という希有な研究者であり運動家が形づくられていると感じた。

水俣に生まれ、へその緒を通じて、母親が食した魚に蓄積されていたメチル水銀による中毒を負い、胎児性水俣病患者としてその後生きてきた人たち、また不幸にして命を既に落とした人たち。私(1958年生まれ)と同じ世代の人たちだ。“奇病”を発生させた水俣湾の魚は売れなくなり、漁もできなくなった漁村は極限の貧困状態にあり、胎児性の子どもたちは、あばら屋に糞尿まみれで寝かされていたそうだ。診察したくても、軒下にさえ入れてもらえない日々が続いたが、原田さんは足しげく通い、「この人は私たちに向き合ってくれる」と、やっと村人に受け入れてもらえるようになった。

原田先生は、何度も「私は水俣に、そして患者さんたちに、胎児性の子どもたちに様々なことを教えてもらいました。今私がこうしているのは、水俣の患者さんたちに育ててもらったからです」と穏やかにおっしゃっる。最後の質疑で若者がこう質問した。「具体的にはどんなことを学ばれたのでしょうか?」それに先生はこう答えた。

「ある裁判の判決が出る時、患者さんたちが上京することになりました。その時あるお母さんが『こん子も行きたいたかて言うとります』と胎児性の子どもさんの声を代弁しました。言葉を持っていないその子が意思を持っているとは誰も思わず、体調もよくないだろうからと周囲の人たちは母親を止めようとしました。でも、『ねえ、行きたかもんね?』と母親が言うと、その子は体を大きく揺らし、表情を変え意思を表しました。
 また、当時私も独身で若い学生だったのですが、ある人が『先生、この子(女性)が先生の写真ば欲しかて言うとります』と。写真を持ってくると、次の時にはベッドサイドに私の写真が貼ってありました。私たちは、胎児性の子どもたちの姿形、そして言語を持っているかなどに囚われ、彼らが持つ豊かな感情や豊かな世界に想像を巡らす力が足らなかったのです。恥ずかしく思いました」と。

この話を聞きながら、障害が重い子どもたちに、ここまで一人の人間として敬意を持って接することができる大人が目の前にいることを心から感謝しながら涙が溢れた。会場の受講者の中には大きな肩を揺らし、すすり泣く男性やハンカチを目に当てる女性も。それでも先生は穏やかな笑みを浮かべながら、淡々とお話になる。

この前日の10月1日、9月定例県議会では「熊本県子ども輝き条例」が本会議で採択された。私と西県議の二人が採決を棄権し、残りの自民党や民主・県民クラブなどの県議たちは賛成に回った。代表質問で、条例についてかなり厳しく潮谷知事を追求された渡辺県議も賛成に回られた。理解に苦しむが、高度な政治的判断なのだろう。私は皆さんのそれぞれの判断は尊重したい。私自身は信念に基づき、筋を通して棄権した。

この間、この条例についてはブログでも度々取り上げ、問題を指摘してきた。条例そのものを作ることには何ら異論はないし、歓迎したいくらいだ。しかし、今回の条例の策定プロセスにおいては、協働ができておらず、わずか4ヶ月あまりで行政主導で書き上げられているし、その内容は、子どもの権利条約では皆無の優性思想が散見され、前述の原田正純先生の目線などは感じれない。大人のご都合主義がちりばめられている。到底賛成できるはずもない。結果、全会一致で賛成とはならなかった。棄権したのは「条例を作ること」そのものは否定しない、私の仏ごころだ。(反対したかったのだが、議事整理上の行き違いで出来なかった)

議員たちの中には、子どもの権利条約に思いを致すことなく、「子どもの条例に反対はできない」とか、「条例に問題はあっても、その後の取組みが大事だ」とか、様々な判断があったのだと思う。しかし、何をするにも理念になる条例がこれでは、今後の取組みが子どものためになるのかとの疑問は残る。パブリックコメントや子どもから後で聞いた意見も、殆ど採用されていない。そもそも子どもが読んで理解出来る内容で、子どもたちに彼らの思いがこもった条例だと思ってもらえるとは考えられない。

しかし今回の取組みで、子どもの目線に立ち、子どもからも学ぼうという大人が、熊本に少なからずいらっしゃることにも心を強くした。ネットを媒体に2週間で募った賛同者は150人にも及ぶ。今後は、子どもの権利条約を踏まえた具体的な施策や、子どもの人権オンブズパーソンなど救済につながる仕組みを書き込んでいけるよう、県下の市町村の条例づくり、計画づくりに働きかけていこうと、今回問題提起した皆さんたちと確認し合った。

人権への感覚の希薄さや古い価値観が蔓延っている熊本という土壌ではあるが、一喜一憂してはいられない。以前このブログで紹介した障害を持つ子どものお母さんの「この条例で私の子どもなどはどんどん社会の隅っこに追いやられる感じがする」という指摘を重く受け止めて、この条例をウォッチしていきたい。こうしている今でも、身体的、心的な攻撃を受けたり、学びの場、意見や思いを口にする機会や生きる場そのものを奪われている多くの子どもたちがいることを肝に銘じ、今後も”オンナこども”や”社会的に弱い立場の人たち”の問題にこだわり続け、今の県議会にあっても連帯の希望を捨てず、ごまめの歯ぎしり議員を続けていきたい。

2007年10月03日

母のいる暮らし

昨日、8月から城山の我家で同居していた実母が、デイケアに通っている老人保健施設に移った。2ヶ月間入所の予定だ。100才の祖母の見守りが大変になったことで、母の妹たちが祖母のことを見守ることになり、母が湖東の家を出て1ヶ月半になる。突然だったので、老健をあたったのだが、10月からしか個室が空かないということで、ここ1ヶ月半、我家で暮らしていた。その間、夫や夫の両親にも温かく受け入れてもらい、感謝している。これから10月、11月と2ヶ月間、老健で毎日リハビリを行い、歩行が少しでも楽になって活動的になればと本人も期待しているようだ。

母との同居は、我家にとっても突然だったので、車いすの母は取りあえず私たちの寝室を使っていた。(その間夫の寝床は居間となった)1ヶ月半の間、夜中に2回、母が「ばあちゃん、ばあちゃん」と突然はっきりとした寝言を言うのを聞いた。「ここは城山よ。大丈夫、おばあちゃんは、叔母さんたちが看てるよ」と言い、手を握ると握り返し、また安心して眠りに入った。夜中も含めて、ここ1、2年の祖母の見守りがいかに負担になっていたかがわかり、せつなくなった。

母は、空腹時に胃が痛むこともあり、朝7時、昼12時、夕方18時と決まった時刻に食事を取る必要があった。そのため、このスケジュールに併せて、食事の準備をしてきた。夕方からの宴会や会議がある時は、家に戻って支度をしてから出掛けることも度々あった。「何時に帰ってくると?」と聞かれ、母の就寝時間の10時を超えるので、先に寝ててというと、「忙しすぎるね」と苦言を呈されたりもした。一時はどうなることかと思った母との同居だが、麻痺していない左手だけで洗濯物を干したり、取り込んでたたんだり、彼女の出来る役割をしっかり担ってくれて、助かったりもしている。私たちも規則正しい生活ができた。

介護タクシーの使い方も慣れては来たものの、通院等には介護保険が使え、その他の外出には使えないが、その料金の差は大きい。事前の予約やキャンセルなどでは、介護保険か一般利用かも含め、高齢の利用者にはまだまだ制度が親切ではない。ケアマネージャーは大変よくしてくれるのだが、通院先やタクシー会社などに予約やキャンセルのため電話する際、言葉がクリアでない母にとっては負担のようで、家族の支援と確認が不可欠だ。いったい独り暮らしの高齢者の皆さんは、どうなさっているのだろうか。

さて、母は12月にはまた城山に戻ってくる。私たちは、彼女の居場所のスペースを作るため、早速、10年以上も手をつけていなかった古い資料や書籍、選挙関連の資料、お釈迦になったパソコン等々、1週間かけて処分し、事務所機能を一部屋に集約した。こんなにがらくたを後生大事に持っていたのかと、我ながら呆れるとともに、母のお陰で思い切った大掃除ができたと喜んでいる。我家、老健、我家と移り住むことになるが、母にとって安心して生活できるスペースが複数あることはいいことだ。

最近、東大大学院教授の上野千鶴子さんの「おひとりさまの老後」を読んだ。”結婚しようがしまいが、だれでも最後はひとり・・・”という帯が付いていた。専業主婦であった人が、子どもや夫から“解放”されて、老後をエンジョイしているケースも少なくない。また、もともと非婚でシングルライフのスキルを持った女性もいる。子どもがいない女性でパートナーが先立ったケースも含め、女性が老後に至るまでには様々な来し方がある。しかしいずれにしても、一般的には男性より長生きする女性にとっては、住み慣れた(バリアフリー化も時に必要)我が家があり、福祉施設や福祉サービスは社会資源として利用でき、楽しく食事ができるおひとりさま仲間がいれば、老後も結構怖くない。しかし、それには、現在でも根強い“家族”を介護にしばる社会の目や不十分な福祉サービスや年金を補う施策が改善されるという条件付だとしみじみ思う。私も夫も、どちらかが「おひとりさま」を生きる時間があるはずだから、その時のために備えておかなければ。


お問い合わせ 平野みどり事務所 860-0066 熊本市城山下代4-7-28 
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